死ぬまでに後悔しない様に、これからの生き方を科学する。

科学
この記事は約31分で読めます。

The life-style which isn’t regretted? I gain scientific knowledge on a life-style.

皆さん、人生を最大限幸せに生き抜くには、どうしたら良いか考えたことはございますか?

そして、自分の死直前の状態をリアルに想像したことはございますか?

普段、何気なく過ごしているとアッとという間に月日が流れているものです。

歳を重ねれば重ねるほど、そのことをより強く感じていきます。

質問しておいてなんですが、私はこの問に対し、真剣に考えてきませんでした。
いや、向き合おうとしませんでした。

ですが、ある事を切っ掛けにして

このままでは死ねない!とブログを始めたワケですが

焦っている私なりに「人生を最大限幸せに生き抜く方法」を考えてみましたので

綴らせて戴きたいと思います。

幸せとは何か?

「人生を最大限幸せに生き抜く方法」を考えるうえで
まずは、「幸せ」とは何かを定義しないと始まりませんよね?

で早速ですが皆様にお尋ねします。

今、幸せですか?

即答でYESと思われた方、羨ましいです。

何が幸せに当てはまったのでしょうか?

NOと思われた方は、どうだったら幸せなんでしょうか?

そして幸せな方は、その幸せが未来永劫続くと思われますか?


答えはノーです。断言させていただきます。

何故なら、お尋ねしたのは「今現在の話」のことです。

もちろん人それぞれ幸せの捉え方や考え方は異なりますが
自身の考え方や感じ方に加え、周囲の環境も時間の経過と共に変わっていきますし
全ての物事には必ず終わりが訪れるので、永久に同じ状態が続くことはあり得ないのです。

では、その時々で変化する幸せの最上級をどう定義したらよいのでしょうか?

人はピークを迎えるその日まで、日々色々な体験を重ねて成長してゆきます。


ここでのピークとは、記憶を認識できる状態での最年長
すなわち自我を保った死の直前」を指します。

成長の終着点で想うことは
その人が持ち得る最高の知能状態(体験の集大成)から導かれた想いであり
「死ぬ直前に総じて幸せな人生だったと思えること」
「自身が描く真の幸せ」の答え合わせになるのではないでしょうか?

私はこの様に「幸せ」を定義してみました。

今までの人生を振り返る

さて、答えを探す旅に出る前に

これまで歩んできた道のりを整理させて下さい。

行動の判断は自分の意志

自暴自棄は例外として、「今さえ良ければいいんだ。将来の事なんてどうだっていい!」
といった方も、ひとつひとつの行動は少なからず自身の望む方向へ判断されてきたハズです。


仮に「強要されて~してきたと」という場合も、その結果がどうであれ
「従う」or「従わない」の2択のうち、自身にとって良いと思う方を
無意識に選んできたのではないでしょうか?

「あー、だりぃ~し、クッソうぜぇ~!ンまやってられないわァ~」と言いつつ毎日出勤する。

この場合、会社を辞めれば、給料をもらえなくなるデメリットが上回るから
出勤し続けているのですが・・・

そこには辞める「自由」があるのに出勤することを自らが「選択」しているのです。

私はこれまで、困難に対峙した際には真っ向から戦おうとせず
どちらかと言えば逃げる選択ばかりしてきた気がします。

選択結果の集合体

平平凡凡な日常に身を委ねていても「生きている」以上、
行動には常々なんらかの選択肢の判断に迫られることばかりだと思います。
何となくといったことでも、深層心理による判断が働いていると言えるでしょう。

人生を一つのマップとして考えた場合、
今現在の自分のポジションは、そういった無数の選択肢の出逢いに対する
自身の選択結果が積み重なって形成されたものとして考えられます。

後から思い出せば、何やってたんだか?と過去の自分を呪うこともありますが
その時の自分には、それが精一杯の行動だったんだろうとも思います。

過ぎた事を後悔するのは簡単ですが、将来に向けて後悔しない生き方をするのは難しいものです。

だってそうですよね?


1秒前の自分より1秒後の自分の方が賢いのですから
過去の自分を笑ってバカにすることは普通のことなのですから。

ですが、いくら言い訳に満足したところで

確実に時間は流れ、自分も確実に老けていくのです。

明日死ぬと知ったら?

ある日、突然あなたは「余命1日」を宣告されたとします。

丁度目の前には、兼ねていつかは食べたいと切望していた料理を提供する有名店があります。
毎度、大盛況で長蛇の列。


いつもなら1時間待ちが当たり前ですが、何故か今日に限っては30分待ちと空いています。

これから並ぼうとしますか?

多分、いや、絶対並ばないと思います。

貴重な残された24時間。こんな事をしている場合じゃない!
よほど食が生き甲斐という方で無ければ、悠長に30分を無駄に過ごす事は出来ないでしょう。

ですが、何気ない日常でしたら


「ラッキー★」 並ぼ~ぜ! うん、並ぼ、並ぼッ!!


と多くの人はそう考えてしまうのではないでしょうか?

同じ30分ですが、この差は一体何なんでしょうか?

私なりに考察してみたいと思います。

視えないものには価値を感じにくい

私たちにとって最も真の価値が高いものをご存知ですか?

条件として「時間・空間」は除外して下さい。

物質的なものです。

即答できる方は、素晴らしいです。

ヒントは、当たり前の様に身近に在り
希釈され過ぎて有難みを忘れているものです。

ズバリ

答えは「空気(酸素)」です。

皆様もご存知、人は空気が無ければたちどころに死にます。

色々と価値が高いものがあるかと思いますが、それは生きていて発揮するもの。

生命を維持するのに最も直結する空気。

これが一番価値が高いと考えるのが自然なことでしょう?

ですが、空気は「無料」で手に入ります。

みんさんは、この空気を無意識に吸って生きているのです。

ちなみに、1分間に15~20回の呼吸をしたとすると
1日換算で20,000回以上空気を吸っている事になります。
これは体積で言えば、1回当たりの呼気量平均0.5リットルと仮定して
ざっくり10,000リットル(10㎥)以上になります。

存在感が「空気」なんて皮肉的意味合いで使われたりしますが・・・。

とんでもない!

全く逆の意味合いになりそうですね(*´ω`*)

価値のモノサシ

価値の指標の一つとして「価格」という概念があります。

物事の価値を判断する際
多くの人は、価格で判断することが多いかと思います。

では、物の値段はどの様に決まり、そして落ち着くかご存知でしょうか?

ものやサービスの価格(値段)は売り手が自由に設定しますが、
売れ残れば一銭の得にもならないので
売れるか売れないかのギリギリの設定を行うのが一般的な考え方だと思います。

いわゆる相場というものですが、これは需要と供給のバランスで決まってきます。

いくら安くても、欲しい人がゼロなら売れない。
またその逆もしかりで、いくら高くても欲しい人がいれば売れるのです。

この欲しいというのが「需要」であり、その欲しいというニーズに応えられる量が
どれだけあるのかというのが「供給」です。

先ほど命を支える上で、空気が最も価値が高いと申し上げました。

ですが、空気はタダ。

これは、当たり前の様に吸えるだけの「量」があるからであって
決して「価値」が低いワケではないのです。

仮に、全世界の空気がどんどん無くなり
「明日からは、半分の空気しか吸えませんが、お金を支払って購入することはできます」
となったら、どうなるでしょう?


今までタダだった空気は取り合いになり
価格も高騰・・・取引きの目玉商品となるでしょう。

やがて、どんどんエスカレートすれば
空気を巡った戦争の勃発や資本家だけが生き残る世界も想像できます。

だだ、今のところそんな事は起こったことがありません。
しかし、環境や条件が変わればそんな事も有り得るという話になります。

そう、「価格」とはあくまで「需要」と「供給」のバランス状態を示す様なもので
普遍的な価値が、必ずしも価格が高い評価となっていないのです。

離ぶーすとらいふ

この様に本来ある価値も、価格の様な相対的な概念だけで捉えると
色々な大切なことを見落としてしまうのです。

これが、「人生を希釈する罠」だと考えています。

不可逆について考える

価格が高いものを購入する際、多くの資本が必要ですので
お金を潤沢に持っているに越した事はありません。

よくお金持ちは「心にゆとりがある」という言葉を耳にしますが
これは、求める物事を手に入れる際に支払う資金に余裕があるので
細かい事を気にしなくても良いというのも理由の一つだと思います。

お金持ちは羨ましいですね。

ですが、どれだけお金を持っていても買えないものがあります。

その一つは「時間」です。

一日24時間。こればかりは泣いても笑っても引き延ばす事はできません。

そして、その最大の特徴は※「不可逆」であることを強調させて戴きます。

「不可逆」=再び元の状態に戻れないこと

時間はお金では買えないと述べましたが、例えば徒歩30分掛かるところ
タクシーを使って3分で着いたなどお金を投じて時間を節約することはできます。

しかし、過ぎ去ってしまった「時」は絶対に取り戻せないのです。


一秒、一秒は極々短い瞬間的な時間ですが、
決して巻き戻ることがない1発勝負の積み重なりと考えると
時間の使い方について考え直させられます。

時間は物質的なものではなく、絶えず連続的に流れているので
前述の「視えないものには価値を感じにくい」では、敢えて除外しましたが
時間も普遍的な価値を考えるうえで非常に重要だと思うのです。

幸せの根源ついて考える。

私は幸せの最上級「死ぬ直前に総じて幸せな人生だったと思えること」と定義しました。

気付いた方も多いかと思いますが
幸せの説明を幸せのワードを使って説明していたら何の事か解りません。

赤とはどの様な色ですか?と問われて「赤色」ですと答えている様なものです。

何故、まわりクドイ説明としたのかは
幸せの定義は、その人が感じる幸せに他ならないからです。

しかし、人生の中において「幸せ」を感じる回数が多いほど
幸せな人生だったと実感できるのではと思った次第です。

「幸せ」自体は定義できませんが、「幸せ」を取り巻く「人生」にスポットを当ててみます。

実質的な人生の総量とは?

「幸せ」は当然、生きていなければ感じることなどできません。

だったら長く生きたもの勝ち?と問われればそうは思いません。

明日が楽しみで毎日が幸せと感じる人がいる反面
苦痛でしかない明日を待つことを繰り返し過ごしている人もいるわけです。

いかに幸せを得られるかに関して言えば

重要なのは、どれだけ長く生きたかではなく「どう」生きたかであり
「人生の質」言わば「実質的な人生の総量」がポイントとなるのではないかと思うのです。

私は実質的な人生の総量を次の様に考えています。

順を追って説明してゆきます。

私が示しました式は「掛け算」なので、いずれかがゼロになれば当然ゼロとなります。

寿命については文字通り、この世に生を受けてから死ぬまでの時間です。

アクティブ時間と表現したものは、「自由に意識を働かせられる・行動できる」時間です。
意識を失っていたり、寝ている間は、この時間に含まれません。

体験の幅とは、良い・悪いは別として
何もアクションをしなかった場合からの乖離具合いを示しています。
体感の幅と言い換えた方がシックリくるかも知れません。

さて、この3つの掛け合わせる要素について性質を考えてみます。

寿命は、日頃の健康への気遣いで多少変わるかと思いますが
任意でその時間を劇的に延長できるものではありませんし
不慮の事故で幕を閉じてしまうかも知れません。

つまり寿命とは、先天的(運命的)な要素が強いものと言えるでしょう。

一方、他の2つの要素はどうでしょうか?

「自由に意識を働かせられる・行動できる」時間体感の幅については
自分の心掛けで大きく変えることができる要素です。

簡単に言ってしまえば「充実度」と要約できるかと思います。

既に述べましたが、この式は掛け算です。

つまり「いくら寿命が長くても充実度がゼロであれば
実質的な人生の総量もゼロとなる」と言えます。

そして「充実度」について

言葉では簡単ですが、その上げ方を考えてみました。

充実度の具体的な上げ方

認識を変える。

リアルに死期を認識すると、30分でも惜しいと思えるハズではと述べました。

これは、普段何気なく吸っている「空気」も同じことで、多かろうが少なかろうが
本来の価値は同じハズです。

違うのは「認識」の持ち方だと思うのです。

ものごとには必ず終りがあり、命もいつ尽きるかも判りません。

そんな中で与えられた「命の時間」は、どの時点でも「等価」であり、
貯めておくことが出来ません。

例えば、これが時間の代わりにお金だったらどうでしょうか?

「あなたは毎日1000万円受け取れますが、他人に譲渡したり
購入した物品等や残額を明日へ持ち越すことは出来ません」

多分、殆どの方が1000万円をその日の内に使い切ろうと思うハズです。

ダラダラと「無意味に過ごす事」
この「権利を放棄している」様に思えてなりません。

1000万円の設定が妥当かは判りませんが、過ぎ去った時間をお金で買い戻せない意味では
価値として「時間>>お金」で間違いないでしょう。

死に際に焦ってやり残したことを後悔するよりも
日々、1日の「価値を確実に消化」してゆくことが大切なのではないでしょうか?
但し、確実に消化とは暴飲暴食してでも使い切るといった意味ではこざいません。
一日の終わりに今日も意義のある一日だったと満足できることが適切な消化だということです。

では具体的に価値を確実に消化する為の方法を考えてみましょう。

私は「自由に意識を働かせられる・行動できる」時間をアクティブ時間と表現しました。

アクティブ時間を確保する

先ずは、アクティブ時間をいかに確保するかです。

シンプルですが、時間の逃げ足は速いのです。・・・時間は経つのが早い。
ちょっとボーッとしていると1分や2分なんて瞬殺で過ぎ去ってしまいます。

そんな貴重な時間ですが、1日でどの程度の最大アクティブ時間が
あるのか把握することが第一歩になります。

一日は24時間ですが、人間には睡眠が必要です。
睡眠時間を8時間とすれば残りは16時間で、
この時点で既に1/3の時間が消費されています。

年間ではなんと睡眠時間だけで約122日間を消費しています。
積み重ねは大きいことが伺えますね。

そして、生活を維持するには収入が必要です。
つまり、なんらかのお金を稼ぐ活動を行うワケですが
会社勤めを想定すると、ザックリ最低8時間が会社に拘束されます。

年間休日の差や残業時間の有無で変わってきますが
最低でも年間で80日以上は消費しています。

睡眠時間と労働時間で合わせて約200日以上は囚われた時間と認識すると
1年間は365日ではなく165日前後の時間勝負というイメージになります。

更に囚われの時間の追加として大きなものが

「残業」「人付き合い」などが考えられます。

残業

残業については、収入UPに直結する様に思えますが
命の時間を支払う対価としての金額が見合ってないのならば
しないに越した事はないでしょう。

一度収入額から時給計算をして
納得できる金額か確認する事をお勧めします。

そもそも、残業が慢性的に発生しているのは
①②③のいずれかと思います。

①自分がダラダラしている
②能力または適性が不足している
③会社や組織の仕組みがオカシイ

①②は自身の問題であるので改善の余地がありますが
③に至っては、「時間を無駄に搾取されている」事について認識し
会社や組織の仕組みを改善してゆくか、転職する事をお勧めします。

もちろん、残業が美味しいと思えたり、残業を含めた「仕事自体が生き甲斐」と
思える方は、その限りではありません。

特に、仕事自体が生き甲斐という方は、仕事を通じての社会貢献などを
人生の大きな目的として設定され、その目的に時間を割いているのでしょうから
それはそれで素晴らしいことだと思います。

ですが現実は、お金を稼ぐ為にお勤めされている方の方が
圧倒的に多いのではと思うのです。

大切なのは、お金を稼ぐ事は生活を支える手段であって
人生の直接的な目的ではないという事です。

確かに多くの収入があれば、生活の利便性が向上したり
物品的に豊な暮らしができるでしょう。
でも、それを目的として自身の命を余分に削っていくのは本末転倒と感じるのです。

ここで私の好きなフレーズを紹介しておきます。

起きて半畳寝て一畳

どんなに大きな家に住んでいようと、人一人が占める場所は、起きているときは半畳、寝るときは一畳あれば充分足りる。

天下取っても二合半

たとえ出世し天下を取った人間でも、一食に二合半ほどの米が食べるのが限度である。

どうでしょうか?

まだまだ困窮を極める国・地域や格差社会は残されていますが、それでも戦争で生活の場や食料など常に明日の事を考えながら怯えて暮らす日が当たり前の時代と比べると、非常に物品的に豊に満たされているのが現在だと思います。

決して怠けろ、働くなという話ではなく
目的と手段を正しく認識し、そのバランスを考えることをお勧めします。

人付き合い

そして「人付き合い」について。

あなたは、どの程度人付き合いに時間を使っていますか?

人付き合いも、立派に人生の時間を消耗するイベントです。

その相手は、自分にとってどんな人でしょう?

苦痛に感じたり、渋々相手の顔を立てるなんてことでしたら
即刻辞める工夫をするべきだと思います。
付き合いが無くなる事で関係性が悪くなるようでしたら
その程度の相手だったということになります。

飲み会でいくら上司のご機嫌ポイントを
なりふり構わず稼いだところで、一歩会社を離れたら
ただの見苦しいオッサン。自分の人生に1ミリもプラスになる
影響をもたらせてくれるのでしょうか? 

つまり、手段(ここでは会社を指します)の枠組みの人間は
その手段に見合った最低限の相手で充分なのです。

あなたはその人の為に生きているワケではないのですから。

逆に、その相手と接することで精神が満たされたり、学んだり
刺激しあったり、ストレス解消となったり・・・
自分にプラスになる要素があれば、有意義な時間の使い方をしていると言えるでしょう。

色々な相手を気遣うことも大切ですが、言い出したらキリがありません。
時には毅然とした態度で断る勇気も必要です。

付き合う人を選ぶ事も、自分の大切な時間の使い方に大きく影響することを
意識してゆきたいですね。

時間節約テクニック

その他、時間を節約するうえでのテクニックを紹介します。

情報を上手く利用する。

今のご時世、Web上には情報が溢れかえっています。
ちょっとした検索の手間を掛けることで大幅に時間を短縮できることが多々あります。

もちろん情報の玉石・真偽を見定めるスキルも必要ですが、
メリットの方が大きいと思います。先人の知恵は有難くいただいて損はありません。
自分で調べられる事はなるべく事前に押さえておくと吉です。

物事を始める前に、計画を立て期限を設ける。

順序や手順を間違えると非効率であったり、2度手間になったりとロスが多くなります。
纏めてできることは極力同時に行うなどマルチな行動は、計画を立てないとなかなかできるものではありません。
思い付きが功を奏したり、時には勢いも大切ですが
ある程度のゴールをイメージすることで、我に返って中断するなんてことを防げます。

物事の優先順位を判断する。

時間は無尽蔵に無いので、時にはやるべき事の取捨選択も必要です。

判断の方法は至って簡単です。

異なる2つの「やるべき事」でどちらを先に手をつけるかと悩んだ場合は
下記の2つの質問に対し、YESかNOで比較して下さい。

それは、大事な事か?・・・YESNO
急ぎでしなければならないのか?・・・YESNO

すると、下の図の①~④のどれかに割り振られます。

比較した際に、番号が若い(小さい)方から優先して対応すると効率的です。
この図で言えば、取り組み順はSの字を描きます。
ポイントとしては「重要性>緊急性」といったところですね。

その場で出来る事を先送りしない。

「優先順位」で④(大事でも急ぎでもない)についてですが
その場で、「即」処理ができる様な内容であれば、その場で片付けてしまうのもアリかと思います。

先の説明と少し矛盾してしまいますが、④でも塵も積もれば山となります。

例えば、郵便物が届いて中身を確認したところ、署名と捺印だけで済む書類が入っていたとします。
期日は2週間あるので、書類を封筒に戻し机の上に放置しておきました。

・・・数日後、あれから郵便物が色々来てたけど
そう言えばあの封筒どこだっけ???

そうです。コレは私がよくしてしまう事ですが
その場で即出来る事を放置した結果、無駄に書類を探す手間が増えたり
紛失してしまったり、忘れたりと面倒が増える場合が多いのです。

隙間時間を見付けたら、こういった④の処理に使いたいですね。

体験の幅を広める

慣れという麻痺

ここからが、私が一番力を入れて語りたい内容になります。

体験の幅を広める?と聞くと、普通に色々な体験をするで良いのでは?
と感じた方もみえるでしょう。

確かにそうです。
色々な体験をした方が、厚みのある人生を送れるに違いありません。

ただ、色々な体験をするにはそれなりの時間やお金が掛かります。
となると、やっぱり生活が裕福だと有利とな話と片付けられそうですね。

ですが、この世の中そう単純ではございません。

みなさん、高級食材はお好きですか?

例えば、極上大トロ。
口の中に入れた瞬間に濃厚なシャリと一体になって濃厚で深みのある味わいが
広がり、虜になってしまう方も少なくないと思いますが・・・

これを朝昼晩と365日食べられますか? エブリイデイ、エブリナイト 大トロ。
食べ続ける事は不可能では無いにしても、多分嬉しくないですよね?
超極上霜降り牛肉も、最初の数枚を食べ終えるともういいやとなりませんか?

そう、必ず「慣れ」という麻痺が襲ってくるのです。

一度は切望していたものも、いざ手に入ってしまうと
それだけでは物足りなくなるのも同じです。

渇望→成就→幸せ→麻痺→
知らず知らずの内に当たり前というリセットが掛かり・・・
渇望がグレードアップされて最初に戻る。

飽く無き欲望も、この様なループから生まれているのでしょう。

傍目から見ると裕福な生活が羨ましい・・・でもその裕福な生活をしている方は
きっとそれが「当たり前」と感じているかも知れません。

苦しさの先に喜びを知る


人間の持つ様々な感情のなかでも代表的な4つの感情を言い表した四字熟語で
喜怒哀楽という言葉があります。

例えば「喜び」であれば
「自分の成し遂げたことにうれしく思い湧き上がってくる感情」とのことですが
その感情の強さはどの様に生まれてくるのでしょうか?

大して苦労してないけど、運良くスムーズに事が運んで達成した事と
死に物狂いで何度もチャレンジして必死で掴んだ成功ではどちらが喜びが大きいでしょうか?

また、いつでも購入できる自販機で買った飲み物と
砂漠で何時間と彷徨い続けてやっと見つけたオアシスの水では
どちらが「喉に沁み亘る」でしょうか?

言うまでも無く、後者だと思います。

違いはたった一つ。
与えられたものか困難を乗り越えて自分で手に入れたものかだと思います。

相反する状態に身を置いてこそ、相反する状態を知ってこそ
得られる「価値」の重さを理解できるということですね。

発想の転換(ゼロベース思考)

人間の持つ感情のひとつである「喜び」について
その大きさは、自分が乗り越えた困難の大きさの他、
希少性でも当てはまるかと思います。

希少性とはレア度つまり、事の起こり難さを意味します。

例えばジャンボ宝くじ。

1等の当選確率は1000万分の1とのことで、とてつもなく低い確率です。
10,000,000分の1・・・。

とても当たりそうにないが、買わなければ当たらない。
期待できないけど「夢」を買うという意味で購入される方も多いのではないでしょうか?

まぁ、夢と例えるだけの超低確率だけあって、万に一つの1000倍の当たり難さ
ではありますが、その分、当選したら喜びの感情もひと際大きくなることでしょう。

これらを総合して
手に入れ難いものを手に入れた場合でも同じと考えられます。

ここで発想を転換してみます。

なにも喜びは、これからの事でなくても、宝くじに当たらなくても
今の時点での境遇に幸運を見出すことで得ることができるのです。

例えば、自分が今生きていることの確率を考えたことはあるでしょうか?

とてつもなく広い宇宙ですが、これほどの生命溢れる星は
今のところ「地球」以外発見されていません。


地球上で生きるとは先ずこの星が存在し、この星に生まれると言う
「超絶奇跡的確率」を既にクリアしているのです。

ちなみに、地球に生命が誕生する確率は10の4万乗分の1とのことですから
宝くじの1等当選確率10の7乗分の1をとてつもなく低い確率と述べましたが
地球に生命が誕生する確率に比べたら、なんて超超超高確率なんだ!という事になります。

ちなみに10の4万乗分の1を数字表記に直すと・・・
100000000000000000000000000・・・・
このゼロが4万個並んでいるワケですね。


つまり、この奇跡も「当たり前」と思ったらソレまでになり
幸福を得るために、更なる高見に咲く花を探しにいくことになるのですが
今踏みしめている大地の有難さを「知る」ことも喜びを得る鍵となるのではないでしょうか?


この様に前向きに物事を考えることを「ポジティブシンキング」と言いますが
単に前向きに考えるだけでは、表面的な捉え方で終わり
真の有難みの理解に到達することは難しいでしょう。

財布に100円しかない。→100円あったら〇〇〇が買える!
いやー今日は、〇〇〇で最悪だったよ!→〇〇〇じゃなかっただけ良かったね。

もちろん「ポジティブシンキング」は素晴らしいのですが、やはり物事を自分の境遇と
相対的に比較してしまいがちで、ただ単に都合が良い様に考えてしまう恐れもあります。

これは先に「価値のモノサシ」で述べましたが、相対的な概念を捨てないと
「人生を希釈する罠」に陥る、つまり「絶対的な価値を見落とす」ことも考えられるのです。

では、どうしたら真の有難みを理解できるのでしょうか?

その一つとして、私は「ゼロベース思考」をみにつけることをお勧めします。

ゼロベース思考とは、前提知識や思い込みを一旦ゼロにして、再度物事を考えることです。

既成概念や先入観を捨て物事に向き合ったり、本来のあるべき姿を探索することで
様々な分岐点の扉への気付きや、進路を見直す機会を与えてくれます。

例えば「体験の幅を広める」という命題をゼロベース思考で捉えると
何もプラス領域の積み重ねだけでなく、マイナス側も幅としてはプラスに成り得ると考えられます。

つまり、幅とは数学的に言う絶対値を指し、その大きさはマイナスとプラスの差という事です。


では、自分にとって辛いことや悲しい事、不幸というマイナス側の事が起こって喜べるのか?
と言った場合はどうでしょう?

もちろん、マイナス側の事はなるべくなら
起こって欲しくないと言うのが一般的な心理だと思います。

しかし世の中は非情。
万物は一刻一刻と変化を遂げているので理不尽・不可避な事が起こっても不思議ではありません。

ですが、マイナス側になるという事は、とは少なくともマイナスになる分だけの
「のりしろ」が在ったと言えるわけです。

見方を変えれば、マイナスに陥ってから「遡って」マイナスに陥る前を見れば
「プラス」と言う事であり、より厳しい境遇に陥ったとしたら
それはより高い位置にいたという事になります。

例えば、貴方は悪夢にうなされ、朝起きて現実で無かったことを知り
安堵の息に包まれた経験はないでしょうか?

その安堵の大きさは、悪夢の内容が酷ければ酷いほど大きくなりませんか?

つまり何事も無い平平凡凡の日常だったとしても「失って判るものの大切さ」
無尽蔵に埋まっている可能性がある訳です。

石ころがダイヤの絵

避けては通れないマイナス側の出来事も、体験として積み重ねると
今踏みしめている大地の有難さを「知る」糧として活きてくると思うのです。

ただ、ここで重要なのはマイナス側の出来事を「受動的」に待って積む事ではなく
今踏みしめている大地の高さを「能動的」に知ることです。

「知る」ことにより、未来における落下も前もって「覚悟する」ことができます。

「覚悟」を持てば、漠然とした将来の不安という自分に甘い猶予から
リアルな時期へと認識が変わり、行動も加速します。

そして、知るためには把握することが必要であり
その為にはものごとをよく見なければなりません。

漠然と見ているとビジョンだけ映りますが、ここでは表面的なことを見るという意味ではなく
因果関係や背景、関連性、成り立ちなど直接目に見えないものを「視る」ということです。

視る」とは、多角的な考察を踏まえて深層・深層を探る事
WHAT(物体)を見るではなくWHY(何故)、またHOW(どの様に)と言う
思考の眼を使うこと

例えば「リンゴ」が目の前にあったとしましょう。

貴方はどう捉えますか?

赤い、丸い、大きい、小さい、光沢があるなどがWHAT(物体)です。

これをよく思考の眼で「視る」と・・・

産地は何処?誰が育てた?旬はいつ?何故ここで販売されている?腐りやすさはどう?甘味や酸味は?密度は高い?水分は多い?含有成分は?実が成るまでどれぐらい掛かる?1本の木でいくつぐらい実るのか?真空で保管するとどうなる?・・・分子量は?万有引力などなど、と言った具合に疑問が湧いてきます。

疑問の量は知の探究の受け皿の大きさだと考えてみるとどうでしょう?

受け皿が大きければ、入手できる情報量も増えますし
疑問が解決した際には、それだけ多くの経験値を得られるワケです。

考え方ひとつで、普段視えていなかったものが視える様になり
体感できる深さや広さに加え、濃度も変わってきます。


この様に「視る」事は、価値の捉え方も変わり、真に大切なものは何かを考えさせてくれます。
死は怖いですが、こういった価値を知らずに死ぬことはもっと怖いですし残念に思えます。

生きることとは描き尽くすこと

わざわざ遠回りする意味を考える

何も感じず、疑問に思わず、スマートに生きていくのもありでしょう。

ですが、その先には何が残るのでしょうか?

生あるところには必ず死ありです。

これは、個々の人間だけの話でなく、人類としてもいつかは必ず幕を閉じるハズです。


それは、人間同士の争い(核)で自滅するのか、他の驚異的な生物の出現で滅ぼされるか
地球環境の崩壊か、地球の寿命か、隕石の衝突か、はたまたブラックホールに吸収されるか
何が起きてもおかしくありません。

宇宙時間で考えたら、人類の出現の歴史なんてものは極々最近なのです。。
いくら「種の存続」を考えたところで
膨大な時間の流れの前には太刀打ちできるはずもありません。

つまり、生物は生まれた瞬間から時限付きの
「死という確実なゴール」に向かって走っているわけで
限りなく無駄を省けば、死ぬことほど省エネになるものはないのですが
死に抗う様に生きているワケです。

それは死という終わりの結果ではなく、「生の過程」に執着する様に
「死の恐怖」がプログラムされているからでしょう。

この人智を超越したプログラムの設計主(摂理?)や目的は解りませんが
人間には生活(生命維持)以外の事を考える能力が備わっています。

もちろん、イルカやチンパンジーやオウムなど高等な知能を持った動物でもいる訳ですが
人間は常々、楽しみや幸せを求める傾向が特に強いのです。

人生を例えると・・・

人智を超越したプログラムについては答えが解りません。

しかし、この世に生を受けた以上
「生の過程」有意義にしたいと思うのです。

今現在の私は、人生を「体験を描いていく活動そのもの」と考えています。

「記録ロール紙」がどんどん流れているところに
せっせと何かを記している姿をイメージして下さい(ただの私の妄想です)。

人生のイメージ

記録ロール紙の流れは「時間の流れ」を示し、何かをしようがしなかろうが
お構いなしに流れていきます。

ロール紙の長さは「寿命の長さ」を示し、いつ途切れるか判りません。

今、生きている瞬間の一場面は「記憶のキャンパス」として記録することが出来ます。
「記憶のキャンパス」は最大で記録紙の幅(24時間)分を配置出来ます。

キャンパスは好きな時に見返すことができます。

キャンパスに描いたものは徐々に色褪せていきます。濃い色で描けば長く記録されます。

記録ロールから拡大(キャンパス)

だいたいこんな感じでしょうか。

何故「今現在の」私はと表現したかと言いますと、昔の私は「今さえ良ければイイ」
と思っていたワケで、体験を描いていく何ソレ美味しいの?と思っていたのです。

つまり、昔は「瞬間の輝き」だけを重視していたのですが
老いた今は、後から思い返しても総合的に充実していたと思える
「連続性のある」生き方をしてゆきたいと考える様になったのです。

キャンパスへの描き方

さてさて、筆とキャンパスが準備されました。

何をどう描こうと自由です。

どうしたら満足できる作品に仕上がるのでしょう?

まず、モチーフのメインは「実体験」になるのですが
薄っぺらい体験をつらつらと描いても面白くも見応えもありません。

もちろん実体験する回数を増やせば量的には増えますが、質的なものは変わりません。
何が足りないのでしょうか?

それはズバリ、「認識」「考えや思想」「感情や想い」と言った要素だと思うのです。

「今日は何々を体験しました。楽しかったです。」というチラシの裏に書く内容ではなく

さしずめ
見えないないものを視て体感し自身の立ち位置や境遇を知り
考えを行動に移して得られた「実体験」と言ったところでしょうか。

この様な「実体験」数多く、より強く描くことができれば

きっとキャンパスは有意義に染まっていくのではないでしょうか?

その方法とは決して難しくはなくシンプルに

「感受性を高め、考えを巡らせる意識を持つ」

たったこれだけの事なんだと思います。

意識は運命にさえ影響する?

意識は行動に、行動は習慣に、習慣はライフスタイルに伝染ります。

そして、その積み重なりは「運命」にすら影響を及ぼすかも知れません。

自分には運がないと嘆くことはありませんか?

運とは確率的な事を指す要素もありますが、結果が良いか悪いかは
その時の自分の状態で判断していることが多いかと思います。

例えば、あの時あの場所に居なければあんな酷い目に遭う事も無かったと悔やむこともあれば
何か嫌な予感がして、行かなくて良かったと胸をなでおろす場合もあるワケで
同じ出来事に対する結果も自身の行動で変わってくるのです。

つまり、様々な因果関係の多くは自身の行動の積み重ねの結果であり
日頃の意識に起因しているとも言えるのです。

運が無い、幸運を逃したと不平を言うのであれば、幸運を逃さない受け皿を
創っておく
意識を持ちたいものです。

ちなみに私は、運勢とか占いと言った暗示の類は全く信用していません
寧ろ、そんな他人に判断を委ねる生き方で良いのかという嫌悪感すら覚えます。

ですが、何事も面倒と思ったら最後、とたんに生きる意味が薄れ
運命に味方されなくなるとは思っています・・・いや、運命は己で切り拓くですかね。

真の目的は自分らしく描き続けること

皆様はどんな体験を積まれてきたのでしょう?

色々な行動の背景として、自分はどうでありたいか?最終的に何を成し得たいのか?
という本来の目的をお忘れになっている事はありませんか?

例えば大金を得ることや、物品を得ることは「手段」の一つに過ぎす
無限の欲望や理想といったものを追い続ける過程にはいつまで経っても
ゴールは訪れず、満足することは望めません。

難しいのは、どこまで自分に正直になれるのかです。

人生最期の日に読み返す作品が「手段」に追われ
嫌な事を嫌々やっているストーリーだけが描かれたモノなんて
全く面白いとは思えません。

そんな事をしている暇など何処にも無いハズです。

あの世には、身の回りの物を何一つ持っていくことは出来きないのですから
最期ぐらいは楽しめる準備をしておきたいところです。

あぁ、まだ途中ですが事情により、一旦ここで終了とさせて頂きます。

近いうちに更新しますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

新しい生き方へ(2021/2/18追記)

未完の記事を離ぶーすとする為に、戻って参りました。

ここまで読んで頂いた方、心からお礼申し上げます。

折角なので、私の最期には楽しめる準備について語りたいと思います。

本当にしたいことへの気付き

私はこれまで、妙な、そして根拠の無い自信を持ち続けていました。

凄い人、成功した人の話を耳にしても
俺だってその気になれば、余裕・・・大した事ねぇじゃん。
と、素直に他人の才能や見えていないだろう努力を認めようとする姿勢が
まるで無かったのです。

実際、職にしても入社して直ぐにこんなアホ会社付き合ってられん!
もっと有能な会社で、自分の才能を発揮してやると転職を繰り返してきました。

結局、判った事と言えば、世の中を知れば知るほど上には上がいるいるワケで
仮にちょっとばかり、周囲より優れているところがあると言ったところで
たかが知れているということです。

そしてもう一つ。

いくら高い給料を貰おうが認められようが、所詮それは社内だけの話。
会社の名前の恩恵で効力を発揮する場面は多々ありますが、個人の力ではありません。


会社という名義を取っ払って、自分を語ろうとした場合に何か残るのか?
と考えると、会社との繋がりで貰った給料を生活に消費するタダの一般人に過ぎないのです。

若かりし頃、応募書類の志望動機欄に「~を通じて社会貢献」というワードを多用し
それなりに内定も色々頂いてきましたが、今思えば何と言う抽象的でいい加減な事を
書いていたんだろうと笑ってしまいます。

そもそも、貢献と言ってもちゃっかり対価として給料を貰っての話ですし、
企業活動の利益基盤が社会貢献として得る対価と考えれば、企業勤めしてれば自動的に
社会貢献しているとも受け取れます。

また、例えば道ばたのゴミを拾ってもそう言えるわけで、その気になったら
会社じゃなくてもいくらでも出来るのですから。

早い話「社会貢献」という言葉自体は、便利ですが別に「尊い」ワケではないのです。

問題は「社会」をどのレンジで設定した話であるかです。
近隣住民? 町? 県? 国? 世界?

そして、一番重要なのは「何をしてか?」だと思います。

この様に漠然とソレっぽい言葉だけ使うテクニックを覚えただけでは
タダの綺麗ごとで、実際に自分のどの行動がどの様な形で貢献しているのか
という答えには到達できないのです。

ともあれ、若かりし頃より少しばかりは賢くなり
「根拠の無い自信」「無知の知」へ変わりゆきました。

決して輝かしいことも、人に誇れることも殆ど無い自分ですが
パッとしない人生をリアルに過ごしてきた実体験から語る「反省」
については「これからの方達」にとって多少たりとも一日の長があると信じ
これを役に立たせたいと考えたのです。

私の成し得たいこと、それは「人にプラスの影響を与えられる」ことです。

これは偽善でもなく、単に私の願望です。

誰かの役に立てる時、充実感を覚えませんか?

感謝された時にもらう笑顔は心地よく「美味しい」ですよね?

そんな時に、この世に生まれてきた意味があったと思える
「自身の存在価値」を見出せるのです。

ブログとの出会い

本当に、本当に、本当ぉおおおぉぉぉおぉに
便利な時代となりました。

私が若かった頃は、パソコンは大掛かりなデスクトップタイプで何十万円と高価なもので
ネットワークスピードも今じゃクレームの嵐に遭ってもオカシクナイほど低速でした。

また当時の記憶媒体は「フロッピーディスク」という今じゃ考えられない
低容量のものが主流でした。なんとその容量は脅威の1.44MB!!

現在の高解像度化が進んだ写真では一枚記録できるかどうかの容量です。
そしてその寸法はだいたい(縦9.2cmx横9.0cmx厚さ0.3cm)と・・・
時代の流れを感じずにはいられません。

ご存知ない方は下記外部リンクをご覧ください。
フロッピーディスク – 規格・構造など – Weblio辞書

日付が変わりまして2021/2/19 時刻は0:22を廻りました。
取り合えず、本日はここまでとさせて頂きます。
みなさま、おやすみなさいませ。

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イッシぃ~
自身の体験談を基に「価値ある情報、楽しみに繋がること」を発信し、少しでも皆様の生活のお役に立ちたいと考えています。 思ったことを実現する力「行動」のキッカケになれれば幸いです。 そろそろ尖った人生へ乗り換え準備中♨♨♨

コメント

  1. まりプル より:

    後悔なく今を生きろぅだね😙

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